無職ともくもく会

いやー梅雨って無理だわ、と昔は考えていたが、最近発見したことの一つには、梅雨は意外に涼しい日もあると言うことで、涼しくて雨が降ってるのは最高。今日がそういう気候なのかは知りません、引きこもりなので。嘘ついた。寝起きなので。

で、そうそう、今日は久々に知り合いともくもく会をやりに新宿まで出かけることになった。もくもく会とはどっかに集まって黙々と作業する会である、みたいな定義らしい、とりあえず人恋しいから無職にはうってつけらしくそこそこ流行っている。自分の場合ネットで知り合った友達とさくっとランチがてら作業するみたいなのが気楽でちょうどよい感じ。ちなみに、作業する内容は気分次第だけど、暇だしプログラミングの勉強でもしようかな、と思っている。

それでも町は金持ちのために廻っている

考えてみれば当たり前の話だ。金のない人間に施しをするための場所じゃない。自分、比較的繁華街の近くに住んでいるので人恋しさに街に出かけたりするのだけど金がないと何も楽しくないというか、もはや一か所に停止することすら許されないということを強く感じている。なんか自分はただじっと人通り見てたいみたいな気分があるけど、そういう願望は町では通じない、カフェでも入らないとじっとさせてくれないし、社会、もっとベンチとかおいておいてほしい。意地悪なのでは、とすら思う。

というか、比較的ニート、というか、一般人巻き込んでみんな、ホームレスのせいでぞんざいな扱いを受けていると感じていて、ベンチとかそういう公共の福祉的なものがホームレスに乗っ取られるせいで、わけのわからない寝そべり防止用の仕切りが存在したりするの、控えめに言ってキレそうだし、キレそう。で、みんな基本的に金を持っていて、それでカフェにいくなりなんなりで解決できるのであまり意識しないけど、自分みたいな無職はどうなるのか。みたいなことです。金のかからない娯楽を都市部で提供するのはなんだかなんだいって難しいと思うので、やはりニートするなら田舎のほうがいいのではないか。田んぼとか畑とか、フィールドが整っている。田舎に対する願望がある。

ただ消費するだけの娯楽ではなくて、一定時間の拘束があって、日々進捗が出て、達成感を得られるみたいなものが娯楽として欲しい。ニートをしていると、時間を拘束される経験が極端に減る。当然時間が裁量性となると、結果を出すのも自分の裁量如何になってしまう。なんかもっとこう、自動的に「その行為」自体をやるだけで最終的に実態を伴った結果が得られるものがほしい、みたいなところを突き詰めていくと、農家ってかなり近いものなんでは、という念が頭に浮かんでくる。都会でそういうことに近いのって、手っ取り早い代替としてはゲームなんだと思う。金持ちにはもっといろいろな手段が提供されている。というか、金を稼ぐという行為自体が「その行為」なのかもしれない。そこに違和感を感じてしまった時点で社会の外側にはじき出された今、やるならゲームか農業か、という事態が展開してしまった。

略歴

社会のメンバーとして活躍。社会を脱退後、自宅に所属。朝起きて吸い慣れないタバコを吸って悶絶した後散歩したはいいが、特に何もすることがなくなけなしの金で松屋に駆け込んで牛丼並を注文したあと帰宅、爆睡し、現在に至る。

吸いなれないタバコ吸ったらグロッキー

字余り。友達にひと箱もらったまま放置してたセブンスターを、家族が誰もいないのをいいことにベランダで吸ってみた。ニート生活ではこういうベランダしぐさもクレーム源になりかねないので細心の注意を払う必要がある。で、ほぼほぼ非喫煙者なので肺に入れず吸っていて、吸ってる最中はそれなりに美味しかったんだけど、吸い終わってリビングに入ってお茶飲んで寝っ転がってたらとにかく口の中がまずくてまずくて仕方ない、これはいかんとゆすぐも効果なし、とりあえずタバコはそんなに向いてなさそうだ。という学生時代と同じ結論にたどり着いたところ。

皿洗いがだんだん手馴れてきた

皿洗いがだんだん手馴れてきて楽しくなってきた、とまでは言わないが、とにかく、皿を洗うというのはとりあえず食器を棚に戻すところから始める、という手順がわかってきたので要領の上昇を感じる。あと意外と食器を隅から隅まで洗うの難しいという感じがする。皿、洗っている間は無心になれるので意外によくて、あと家族との友情ポイントが溜まりやすいのでニート的にはお小遣いガチャが回しやすくなるというメリットがある。

テレビジョンと強制力

テレビには強制力がある.テレビはリアルタイム配信ゆえ,必ずその時間帯に見なければならないという強い制約があるからである.これがアニメやドラマの視聴をする上では強いモチベーションにつながっている気がする.というのも大半の人はながら観,流し見という行為に慣れきっているからだ.自分のようにリアルタイムで視聴する環境がない場合,というか,リアルタイムで見るのがしんどいタイプの人間は,録画だったりバンダイチャンネルだったりと言ったものから見ていくわけだが,これが意外に面倒くさい.つまりテレビを見るだけなら時間帯にテレビのボタンを入れるだけで済むワンステップの行為が,Webの配信を視聴するとなると,サイトにアクセスし,作品選びからはじめて,再生ボタンを押し,フルスクリーンに拡大するという作業が発生するわけで,この作品選びという工程が地味に多大な認知的負荷を呼んでいると思う.というわけで,アニメを見るのは結構自分にとって苦痛だったりする.

だから最近は作品を決め打ちすることで作品を選ぶコストを削減しようとしているが,ただし自分はどうもながら観というのが苦手らしく,どうしても画面に没入しないと作品を見ることができないようである. 画面に没入するというのは意外に集中力を要する作業だし,はっきり言ってたかだかアニメごときに集中力を注ぐのは疲れる.ニートになって,いろいろなテレビ番組(主に海外ドラマ)などを見ていたせいで,作品に対する目が中途半端に肥えてしまったこともあり,なかなかアニメ視聴がはかどらない,という現象に遭遇する頻度が増えた.

これはなにもアニメに限った話でもないと思う.例えば音楽だってそうだ.昔は限られた物理媒体のなかから選ぶわけで,そこの部分の選択にまつわるコストというのは限りなく低かった.だが今はどうだろう.数多ある音楽のなかから,自分の好みを見つけ出し,その中で最良のものを聴き続けた結果,「聴ける」作品の範囲というのはますます狭まっていくばかりではないのか.最良,最善,一番良いもの,中途半端ではなく,卓越したもの,そういったものへの際限なき欲求が自分の中にあるのを感じる.媒体の変化は,単にその販売形態を変化させただけではなく,私達の消費スタイルそのものを変化させた.そうした最善へのこだわりというのが,今の社会を蝕んでいるように筆者は思えてならない. 目の前に大量のコンテンツが転がっているのに,それを自分の目が勝手にフィルタリングしてしまう.これは不幸なことなのか,あるいは幸せなことなのだろうか.いろいろな疑問が頭に浮かんできてしまう.

活字が読めないので時間がつぶせなくて大変困難

ちょっと精神状態が悪くなってニートになったわけだけど、まあなんだ、活字が読めないので時間がつぶせなくて大変困難な状況にあって、まあニートなんで活字が読めたら図書館にでも行くんだけど図書館に行くともはや活字が読めない現実にひしひしと打ちのめされるので、非常につらくなってトボトボと帰宅する羽目になる、のでさいきんは図書館には散歩の目印として近づきはするのだけど入り口でUターンするようになったのが拍車をかけて物悲しい。読めないというよりは意欲がわかないという感覚のほうが正確なのかもしれない。なんか、図書館、見てると世の中の人はいろんなものに興味があるのに、自分はなんも興味がないという事実にぼんやりと頭がいく。

ところで、多肉植物が好きなのだが、多肉植物というのはイメージが付きにくいので、まあサボテンをイメージしてもらえばよいのだけれど、サボテンとか、ほとんど何もしなくても勝手に育ってくれるし、見ていて楽しい。といっても派手な変化はしないので、1年を通して、ああ水吸ってるな、くらいの感覚なのだが、形にもさまざまなものがあり、花屋が好きになった。で、最近は、図鑑がほしくて、多肉植物の図鑑がほしい。ということです。ということを親に話したら、軽くあしらわれた。