人間と学習について、あるいは、ヒトは目の前にピアノを置かれたらピアノが弾けるようになるのか

ヒトはどうやって学習するのだろう、みたいなことをふと思う。例えば目の前にピアノをポイと投げられてその部屋に幽閉されたらピアノが弾けるようになるのか、いや多分ならないと思う。あるいは、普通の人が改善意志があるのに対して自分に改善意志が足りないみたいなことを思う。

適切な環境が与えられたとして、それで人間が成長するのだろうか、ということを考える。あまりそう思わない。成功した人間は環境が整っている、という言葉をよくみんな口にするけど、この場合の環境というのは純粋にものが、物質が投げ捨てられていて、その空間に人間がおかれている、という状態ではなくて、目的意識、あるいは何らかのレファレンス、そういう物に向かって突き進んでいく能力に強く依存している気がする。環境という言葉は、いままで物質的な意味だけだと思っていたけど、適切なレファレンスを与えるということなのかもしれない。そういう意味で、自分は適切なレファレンスを見つけるのが下手くそだ。人生におけるロールモデルのようなものを見つけたり、趣味で何か目標を決定したりするのが苦手だ。漠然とした改善意志だけが存在していて、それは四方八方に分散しているのだ。

レファレンスは誰が与えるのだろう。大抵は親だったり、あるいは、内在する何か、原始体験に基づいたなにかが決定づけるのかもしれない。だとするとそういったものは自分には決定的に不足している気がするし、あるいは、自分の妙な反骨精神、他人のいうことを率直に受け入れられないという性格が影響しているのかもしれない。そういう意味で、レファレンスを見つけるのが当面の課題ではある。

人はよくレールに乗った人生はつまらない、などということを口にするが、人生においてロールモデルが定義されている状態というのはつまり環境が整っている状態ということで、それはつまり適性なレファレンスを自分の中に持っていて、すなわち改善可能な状態におかれているということなので、何もない状態に比較すれば格段に羨ましい。

自分でレファレンスを見つける、という経験を積もうとしている。それはひどくむずかしく、自分自身における原体験というのは一体何なんだろう、というアイデンティティの根幹に結びついた難題でもある。